こぼれ話


此処では半僧坊に纏わる色々な話題を取上げ、紹介して参ります。


初代、二代、目市川左団次奥山半僧坊

 此の写真は『明治座・新狂言ー浜松城記録聞書』と言う表題がついた、歌舞伎錦絵版画です。左端が奥山半僧坊、中央は番頭喜六、右端は宇吉妹お里うで、奥山半僧坊と番頭喜六は共に市川左団次、お里うは市川米蔵と記されています。(明治22年1月16日印刷出版)


 『綺堂事物』と題したH.Pがあり、其の中の『明治の演劇小史』の明治35年のくだりに、                   

 治座  左団次
       権十郎
       寿美蔵
       小団次
       源之助
       筵弁ら
  其水『浜松城記録聞書』ほか


とあります。此処に其水(キスイ)とは、河竹黙阿弥の初期のペンネーム河竹其水の事です。
 となると『奥山半僧坊』が花の御江戸の歌舞伎に登場、当地方の明治時代の粋人が、江戸まで歌舞伎見物に行って、持ち帰った錦絵の写真と言う事になるでしょうか。

 実は深奥山方廣寺には、市川左団次が家宝として持っていた等身大に近い達磨の木像が在ります。明治41年に発行された『奥山真美-奥山半僧坊案内記-』には・・・

 『宝物達磨大師像』の写真が掲載されていて、『是れ劇界の巨擘市川左団次優の秘蔵せし珍宝、作者は法橋信親、心血を濺(ソソ)ひで数十年の辛苦に成りし傑物。有名な優の血達磨劇は、此の尊象を拝して会得し私淑して入神の妙技に達せられしなりと、明治38年中、當山再建部長林宗賢師が、優の息延弁氏に懇望して當山に寄附せられしもの、其の峻厳の相貌覚江ず拝観者をして戦慄ぜしむ。』

とあります。
 上掲の『綺堂事物』の中の『筵弁』とは二代目左団次を継ぐ前の役者名で、左団次とあるのは初代、従って親子での出演ですが、親の方は翌明治36年に62歳で他界しています。達磨像を寄進して下さったのは二代目左団次で、初代が亡くなって間もなく寄進された事になります。

 所で、浜松城記録聞書なる歌舞伎台本を探しているのですが、なかなか見つかりません、何せ黙阿弥は400以上の劇の台本を作ったとか、何処に在るか御教示戴けたら幸甚の極みです。

                                     方廣寺、知客寮に在る達磨大師像で、以前禅堂に在ったもの。







                                                                                          


                                                                                                           以上

                  


『濱松城記録之聞書』 其の後

 二代目市川左団次演ずる『濱松城記録聞書』の台本を探して来ましたがなかなか見つかりませんでした。所が深奥山方廣寺の金庫から門外不出と記された記録が見つかり、其の中に『濱松城記録之聞書』なる歌舞伎の筋書並びに各場の配役を記したものがありましたので、此処に紹介する事に致します。


 管城子餘言                                            明治35年東京明治座春狂言市川左団次一座

                  濱松城記録之聞書

大梁村本家源次郎分家源三郎との争諭なり。本家は元近江国の佐々木家の家臣。瀬田源次郎忠道。建久9年(1198)主家の暇を取り尾三両国を遍歴中没す。其の子孫代々源二良を相續す。元和年中(1615〜1624)遠江国長上郡に留居して農民となり。分家源三郎は平生悪謀を以って本家を亡ぼし度一念を増長し水張を名主と同意して源三郎に直し濱松奉行所へ上申して押領の罪を以って源二郎を捕縛せしめ入牢す。番頭の喜六は半僧坊へ念願して已に満願の暁き料らず火災に羅り本家の系図を出さんと火中へ飛込の一心然れども毛頭の災害もなく夢幻なり。忽ち烟中へ半僧坊出現して曰く。善哉汝主家の為に身命を抛ち忠義の道に叶ひたり猶此上も守り得させんと。云間に鎮火す。喜六火中に埋り不思議にも異常なく懐中を探れば系図は無難にして存在せり偖は火防の御利益と拝伏して其の儘奔って奉行所に訴るに及ぶ。

右興行三周間にて奥山へも報道あり方廣寺の席もあり其際左團次一座より本山へ金百圓並芝居の大看板幾枚を寄附あり仝年四月二日より濱松の歌舞キ座に於て興行す。先きに奥山へ登り参詣し又大柳へも参拝す。

濱松歌舞伎座大入四月二日より八日迄六日間市川左團次演劇木戸通券但し奥山半僧坊心願に付五千枚限り割引す。


 以上が冒頭に述べました記録の最初の部分で、此処からは『発端。江州大津在立場の場。三井寺内光学院の場。』、『序幕 遠州寳珠ケ峯の場。』、『二幕目 八反畑氏神祭禮の場。』、『三幕目 大染農家店先の場。濱松宿青柳楼の場。』、『四幕目 舞阪海岸の場。近江屋景図調の場。寺門前於百度の場。火事半僧坊出現の場。』、『五幕目 濱松城内白洲の場。』と続き、発端及び各幕の配役が紹介されてをります。夫々の主要役どころを並べますと以下の如くです。

 発端 瀬田源二郎ー市川左昇 唐崎玄蕃ー勝川吉松

 序幕 金山の守護神後に奥山半僧坊市川左団次 袖ヶ浦の赤蛇実は椎河龍明神市川米三

 二幕目 掛塚角之進市川左団次 近江屋源二郎市川米蔵 分家源三郎ー市川荒次郎 遊人宇吉妹於りう市川米三

 三幕目 掛塚角之進、近江源二郎、分家源三郎ともに二幕目と同様。 近江屋番頭喜六市川左団次

 四幕目 奥山半僧坊市川左団次 番頭喜六市川左団次 宇吉妹於りう市川米三

 五幕目 桃井宇右ェ門市川莚弁 掛塚角之進ー市川左門次 近江屋源二郎市川米蔵 分家源三郎ー市川荒次郎 


 『浜松城記録聞書』 続其の後

 上述の其の後から些か日時が経過しましたが、ヒョンな事から久松町明治座にて明治35年1月14日に開演された『浜松城記録聞書』の番付を入手しましたのでそれを此処に掲げます。

 右端には沢村源之助、左端には市川莚弁、其の間には、右に『碇知盛ー市川左団次ー』、『寿曾我ー対面の場ー』とあり、夫々の舞台場面が付合せてあります。其の他の場面図は『浜松城記録聞書』の第一から第六の各場面で、最下段が各役の役者名です。

 尚、最下段の右端には『遠江奥山半僧坊』、『鎌倉建長寺山内 勝上ケ嶽登山口』と記された石柱が描かれてをります。

                                                    以上


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